初めて虫を食べたけどおいしくはない(蜂の子・バッタ・セミの幼虫・サソリ・ムカデ)

今日食べたのは、蜂の子、バッタ、セミの幼虫、サソリ、ムカデです。

 

まず蜂の子、油で揚げたものでしょうか。

正直、別にグロさはありません。よくわからない。

こういうおつまみ、あったような気がします。

 

 

蜂の子と聞いて想像するのは白くプリプリとした食感です。幼虫というのは身が詰まっていて外皮を食い破ると味が飛び出してくるような弾力があるのだろう、、

 

 

そんなに抵抗もないので軽い気持ちで、それこそ居酒屋のつまみ、軟骨の唐揚げかのように軽くつまんで口に運びます…

 

 

 

ん、これは…!

 

 

 

 

へにゃり。

 

 

 

味……どこ……?

 

 

口の中で、穴の空いた紙風船のように歯ごたえ無くしぼんでいます。私は中身のない衣を食っているのだろうか。それもサクサク感のない油でひたひたの衣です。

 

よく噛むと、その中で「もそもそ」とした食感。そういえばテレビで虫食ってた芸能人が「もそもそ」と表現していたのを思い出しました。このことだったんだ…

 

粉みたいなとり肉の絞りカスがひとつまみ入っていたというような。とにかく薄味。

何も見えない深い霧の中で、うっすら鶏の影が見えた…ような…そんな気がする……

 

 

あとは虫独特の風味。掃除機の排気みたいな風味がします。これは後で書きますが、他の虫にも共通していたので虫の味と言っていいでしょう。蜂の子は微妙に感じるくらいです。

 

コンビニで売ってるサラダチキン。あれ美味すぎないか?安いし、200円って。味も濃いし、量もかぶりつけるぐらいありますよね。

 

 

サラダチキンってめちゃくちゃ美味いな…

 

 

 

続いてきたのはこのプレート。

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地獄をイメージしたアートでしょうか。おもしろい解釈です。私はこういう地獄図もアリだと思います。

 

 

食べ物なんだよな…

 

食べよっと。

 

最初はまだ馴染みのある、バッタからです。

 

長い足や羽のシルエットが特徴的ですが、構わず箸で一掴みにします。口に入れて噛み砕いてしまえば関係ありません。

 

 

サクサク。

 

 

 

いいじゃん。これはなんか食べたことある気がする。そう、サクラエビみたいな。

えびせんに入ってるエビみたいな味がします。

美味しいんじゃないの?

なんか掃除機の排気みたいな味もするけど。

 

そんな感じです。

 

 

 

次は、セミの幼虫。これも割と身近よね。

シルエットが丸くてかわいい。

 

 

パクリ。

 

 

 

え!?美味い…ッ!?

 

 

 

 

…いや、気のせいだ。

けっこう身が詰まってたから思わず驚いてしまった。噛んだ瞬間弾ける感覚があったのだ。これぞ幼虫に求めていたもの。とはいえ、外皮を食い破る快感はあったものの、やはりその中身は「もそもそ」。パウダービーズが入ってるのかもしれない。流行ってた時あったし。

 

エビ…お前ってすごかったんだな。

プリプリ食感。それ奇跡の才能だよ。

 

 

それから相変わらず虫の味がする。ていうかこの掃除機、さっきよりホコリ溜まってない?

 

 

 

次はサソリだぁぁ。

 

こいつは見た目がめちゃくちゃにかっこいい。

他はみんな串刺しにされてますが、こいつは素揚げにされてもなおハサミとシッポを振り上げ臨戦態勢です。サソリじゃなくて弁慶なのかもしれません。その勇姿が残る素揚げ姿も人間の歯の前では無力。暴力的に噛み砕いていきます。

 

歯を入れたのは腹の部分で、外皮がカリッということはなく、グニョリと歯が沈みます。お腹は柔らかい。そのあと力を入れて引きちぎります。

 

まずその味からイメージしたのはサザエの身でいう深みどりの部分。少し苦くてボロボロと崩れます。

次にやってくるあの虫の風味。その時連想したのは、小学校の頃のトイレ掃除、水を撒くんですが、その時の水を吸ったホコリの固まりを思い出しました。

その後もいろいろ表現しようと試みましたが出てきた言葉は、雑巾、水回りの汚いところ、排水溝、ドブ、ゴミ。

 

ゴミとだけは言わないでおこうと思っていたのについに出てきてしまいました。コイツは腹にゴミが詰まってるんだろうか。断面もなんか灰色のグチャグチャしたもんが詰まってて気持ち悪い。やっぱゴミが詰まってんじゃないだろうか。

 

最後に食べたのがムカデ。

勢いよく頭から半分くらいを口に入れ、ガブリ。

 

ん!?これは…!!!!

 

オエ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!

なんだこれは薬品!?薬品の味がする!

圧倒的な薬品の味!

おそらくなんか薬品に漬けられて保存されていたんでしょう。

イソジンを80倍くらい濃くしたような臭いが鼻から抜けていきます。

薬品の味は一旦無視してムカデの味を探します。。ありました!ゴミとかホコリとかそういう味!

 

薬品の味を除けばムカデとサソリはけっこう近い味でしたね。

 内蔵部分はけっこうホコリみたいな味がするんですが、総じて脚はみんな同じような味がしました。エビの殻みたいな味ですね。そこはみんな多少美味しいです。

 

 

結論

 

エビって本当に美味しい!!!!!

 

 

エビは本当に凄いです。同じような甲殻類なのに、どうしてあんなに美味しくて身がプリップリなんだろう…

 

 

一番食べやすかったのはセミの幼虫ですね。

鶏の胸肉のカスみたいな白い身の部分が1番多くておいしいと思えました。

基本的に内蔵はホコリみたいな味がしました。

バッタも内蔵と比べて脚の部分が多いので相対的においしいです。脚はエビの殻みたいな味がするので。

 

総評的には美味しくなかったです。

 

私達が普段食べている豚肉や鶏肉などの家畜はエサから美味しくなる用のエサを与えられて育っているので美味しいですが、虫も食べていたエサによって大きく味が変わるものだと思います。調理法によっても変わるでしょうね。 

 

昆虫食は需要が少ないため流通量もすくなく単価が高いので、可能性は無限大と言われながらも、主食と取って代わるにはまだまだ時間がかかるでしょう。

 

すごくエビが食べたくなりました。

これからはエビの美味しさとプリプリの食感に感謝をしながら生きていきます。

 

 

ありがとうございました。

 

 

蜘蛛

クモってタイトル漢字で書いた方がかっこいいなと思って蜘蛛にしたわ

 

というのも、私の視界に1匹のクモが入り込んだからである。そしてこのクモは巣を張っているのだが、重大なミスを犯してしまっている。

 

それは巣を張った場所が電車の中、つり革と吊り広告の中間であるからだ。

 

電車の中に虫が侵入していることは割とあるが、虫の生息数でいえば電車の中と外では圧倒的に中の方が少ない。

 

クモはそんな場所に巣を張ってしまったことに気づいているだろうか。

 

この場所で食べ物にありつくにはまず電車に虫が侵入してくれなくてはならないが、それも無さそうだ。巣に引っかかっているのは人間の衣服から湧くホコリばかりである。ホコリは食べられない。

 

しかしクモに電車の中であることは認識できない。クモが認識できるのは、待っているが獲物がこないという事実だけだろう。

 

この各駅停車餓死行きに乗ってしまっているクモだが、さすがにいつまで経っても獲物が引っかからないことに空腹というストレスを通して気づいている頃だろう。

 

この状況。果たして私だったらどうするだろうか。

 

このまま獲物が引っかかるのを信じて待つのか、それともリスクを負っても新天地を求めて移動するのか、

 

そう、このクモはもう他人ではない。転職に悩む私自身だ。

 

当然だが移動にはエネルギーを要する。糸を作り出すのにクモは膨大なエネルギーを消費しているらしい。自らの体にあるエネルギーには限りがある。


そのエネルギーを耐え忍ぶのに使うのか、新たなエネルギーを得るために使うのか。

 

私は蜘蛛を尻目に電車を降りた。

 

 

 

 

若おかみは小学生!感想

終わった後の感情としては決して気持ちのいいものではなかった。素晴らしい作品であることには違いない。

 

アニメ的誇張、幽霊など幻想入り混じる映像でありながら、登場する人間ひとりひとりから、感情・バックボーンから現れる動作の必然性、エネルギー保存の法則のように感情が影響を受け移り変わっていく様子は登場人物を血肉が通っている存在にしていて素晴らしかった、人間を描いていたと感じた。完璧だと思う。

 

おそらく私があまりいい気持ちではない理由は、丁寧な描写の積み重ねだからこそ必然的で、そしてそのベクトルが喪失を描くことに向けられているからだろう。

好きなシーンは多くあるのだが、それ以外の幸福的描写は全て喪失とのコントラストのために存在しているようで、私の中で悲しい作品としてカテゴライズされている。

 

このとき思い切り涙をボロボロと流すことができたなら、泣くこと自体によるストレス発散作用によってスッキリとした気持ちで幕を下ろせただろう。

しかし私は泣くこともできなかった。親しい人の死、喪失。私の中に共感できる部分がなかったのからなのかもしれない。目の前で泣くおっこの姿が網膜から受光して私の心と体をすり抜けていってしまうのだ。

 

私にはこの作品を受け止める受け皿がなかった。

新しい環境が嫌いではないという話

新しい環境にやってきた。

転職でやってきた人生2社目の会社だ。

 

私は新しい環境に変わることが嫌いではない。

 

例えばクラス替え、席替え、進学、この転職もそうだ。馴れ親しんだ人や物がガラッと入れ替わり、未知の物体や生物に囲まれる。もちろん恐怖だが、抑え込まれていた好奇心の刃を振り回すにはなんの気兼ねもいらない。快音のままにバッサバッサと斬り倒そうとも次から次へと未知が現れる。そんな無双ゲームに似た快感を体験できるからだ。

 

コミュニケーション強者のような主張だがそうではない。喋ることは全くの苦手である。

だがそれ以上に好奇心を満たせるのが快感なのだ。

 

それには興味の対象が幸いしてると思う。

私は人見知りであるし、自らの受け答えを省みて何日も落ち込むことがよくあるしコミュニケーション疲れがひどく、もうしばらく人と話すのをやめようとよく思い立つ。

それでもやめられないのは私が人の性格に非常に高い興味関心を持っていてやまないからだろう。

 

おそらくルーツは学校のクラス替えだ。

ホームルームではそれぞれ席に着き規則正しく並んでいて、縦横列以外の関連性を見出せなかったそれらは、休み時間のチャイムとともにごちゃごちゃにかき混ぜられる。しかし数秒後、その教室というビーカーの中にはいくつかの塊が現れる。数秒前まで同じ服同じ顔に見えていたそれらは、一斉に性質を表し出しそこら中で化学反応を起こしはじめるのだ。

 

私はこの瞬間が大好きだ。

 

物体には常に安定しようとする性質があるらしい。

 

斜面にある石が平地を求めて転がるように、

落ちる雨粒がやがて集まり池になるように、

 

席に押し込まれた人間は安定を求めてたまらず動き出す。心の安定だ。

 

心が揺れてたまらず話しかけるもの、さらに心が揺れるのを恐れ話しかけられるのを待つもの、集まると安定するもの、単独が安定するもの。

 

この瞬間はみんなが手探りで最も不安定で可能性に満ちている愛おしい瞬間だ。

このクラスは数ヶ月後どんな様相を呈しているのだろう。アドレナリン出まくりである。

 

 

かく言う私もその一部だ。

誰にも受け入れられなかったらどうしようとか、何か変に思われたらだとか、先生の身振り手振りがオーバーだったことを誰かに言いたいとか、心が拠り所を求めて揺れまくっている。

 

私の定石はまず隣の人には話しかけることだ。後にペンや消しゴムを借りなくてはならないから。逆に第一声にペンや消しゴム借りてきっかけとする場合もある。隣が金髪ピアスやぶつかるほど大きなガニ股だった場合は例外だ。後ろの席を見る。知らねえよお前の定石なんか。とにかく一緒にいて面白い人がいいよね。そんな人を探しながら一人ひとり性格とそれに因果する経験を紐解いていく。楽しいめちゃくちゃ。

でもみんな辛い過去や話したくないことを大小秘めていることがほとんどだ。ここは相手を傷付けないように十分注意をしなくてはならないところである。

本音を言うなら、こちらの好奇心が尽きるまでひたすら質問をしたい。というのが素直な欲求だ。

 

 まぁこのように私は新しい環境が嫌いではない。

人間は30歳辺りから新しいものを受け入れられなくなっていくらしい。

歳をとってもこの性質は失わないようにしたい。