新しい環境が嫌いではないという話

新しい環境にやってきた。

転職でやってきた人生2社目の会社だ。

 

私は新しい環境に変わることが嫌いではない。

 

例えばクラス替え、席替え、進学、この転職もそうだ。馴れ親しんだ人や物がガラッと入れ替わり、未知の物体や生物に囲まれる。もちろん恐怖だが、抑え込まれていた好奇心の刃を振り回すにはなんの気兼ねもいらない。快音のままにバッサバッサと斬り倒そうとも次から次へと未知が現れる。そんな無双ゲームに似た快感を体験できるからだ。

 

コミュニケーション強者のような主張だがそうではない。喋ることは全くの苦手である。

だがそれ以上に好奇心を満たせるのが快感なのだ。

 

それには興味の対象が幸いしてると思う。

私は人見知りであるし、自らの受け答えを省みて何日も落ち込むことがよくあるしコミュニケーション疲れがひどく、もうしばらく人と話すのをやめようとよく思い立つ。

それでもやめられないのは私が人の性格に非常に高い興味関心を持っていてやまないからだろう。

 

おそらくルーツは学校のクラス替えだ。

ホームルームではそれぞれ席に着き規則正しく並んでいて、縦横列以外の関連性を見出せなかったそれらは、休み時間のチャイムとともにごちゃごちゃにかき混ぜられる。しかし数秒後、その教室というビーカーの中にはいくつかの塊が現れる。数秒前まで同じ服同じ顔に見えていたそれらは、一斉に性質を表し出しそこら中で化学反応を起こしはじめるのだ。

 

私はこの瞬間が大好きだ。

 

物体には常に安定しようとする性質があるらしい。

 

斜面にある石が平地を求めて転がるように、

落ちる雨粒がやがて集まり池になるように、

 

席に押し込まれた人間は安定を求めてたまらず動き出す。心の安定だ。

 

心が揺れてたまらず話しかけるもの、さらに心が揺れるのを恐れ話しかけられるのを待つもの、集まると安定するもの、単独が安定するもの。

 

この瞬間はみんなが手探りで最も不安定で可能性に満ちている愛おしい瞬間だ。

このクラスは数ヶ月後どんな様相を呈しているのだろう。アドレナリン出まくりである。

 

 

かく言う私もその一部だ。

誰にも受け入れられなかったらどうしようとか、何か変に思われたらだとか、先生の身振り手振りがオーバーだったことを誰かに言いたいとか、心が拠り所を求めて揺れまくっている。

 

私の定石はまず隣の人には話しかけることだ。後にペンや消しゴムを借りなくてはならないから。逆に第一声にペンや消しゴム借りてきっかけとする場合もある。隣が金髪ピアスやぶつかるほど大きなガニ股だった場合は例外だ。後ろの席を見る。知らねえよお前の定石なんか。とにかく一緒にいて面白い人がいいよね。そんな人を探しながら一人ひとり性格とそれに因果する経験を紐解いていく。楽しいめちゃくちゃ。

でもみんな辛い過去や話したくないことを大小秘めていることがほとんどだ。ここは相手を傷付けないように十分注意をしなくてはならないところである。

本音を言うなら、こちらの好奇心が尽きるまでひたすら質問をしたい。というのが素直な欲求だ。

 

 まぁこのように私は新しい環境が嫌いではない。

人間は30歳辺りから新しいものを受け入れられなくなっていくらしい。

歳をとってもこの性質は失わないようにしたい。